~ Never say never ~2
日向と若島津、それと反町がその場所を通りかかったのは偶然だった。
昼休みがもうすぐ終わるという時間に、午後の授業が行われる予定の美術室へ移動していた。
通常なら自分たち3年生の教室から最短のルートを通って向かうが、その日は職員室へ寄る用事があったため、滅多に使わない順路で目的地へと向かっていた。主に1,2年生が利用することの多い場所だった。下級生ばかりがいるところを上級生が連なって歩いているので、当然目立つ。それが体格のいいサッカー部の最上級生で、しかも日向達であるとなれば尚更だ。
若島津と反町はそのことを認識しつつも、全く気に留める様子はない。日向は周りをあまり気にしないので、自分が注目されているなどとは気づきもしない。3人はただ黙々と目的地に急いでいた。
異変に気が付いたのは、階段を2階から3階に向かって上っている時だった。
階段の踊り場の隅で、一人の生徒が四人の少年たちに囲まれている。こんなところで一人を追い込むようにして取り囲んでいるのだから、楽しい話でないのは察しがつく。それでも日向はそちらをチラと見ただけで、スルーして通り過ぎようとした。これが現在進行形で暴力が振るわれているとか、女子だというなら日向だって助けもするが、見たところ暴力は受けてなさそうだし、東邦学園には女子はいない。
意に沿わない状況にあるとしても、男なら自分で突破するなり打開するなり、対処するべきだ。少なくとも抗うという、意思表示はしなければならない。そう日向は思っている。
だから助けてほしい、と言われない限りは関わるつもりは無かった。それなのに。
一瞬後には分かってしまった。それらが誰あろう、サッカー部の2年生の面々であることに。
「あっれー。お前ら、何やってんの。こんなとこで」
「・・・反町さんっ!」
声をかけたのは反町だった。一番手前にいた部員の肩を掴むと、そのまま引っ張って後ろに下がらせる。輪が崩れて、中にいた少年の顔が見えた。
「お前ら、なにしてんの?こんなところで一人を囲んで。まさかと思うけど、リンチ?」
「違いますよ!そんなんじゃなくて、こいつが・・」
日向に若島津、反町は一斉に『 こいつ 』と指をさされた、真ん中にいた少年に視線を向けた。同じくサッカー部2年生の香坂だった。
香坂は下を向いたまま顔を上げようとしない。泣いている訳ではないらしい。顔や手にも怪我や赤くなっているところは無さそうだ。制服にも汚れたところは無い。
それだけ見てとると、日向は『 反町に任せた 』とばかりに一歩引いた。隣に立つ若島津はというと、とうに傍観者になっていて、日向は呆れつつも感嘆の目で若島津を見上げた。
どのみち、こういった揉め事は反町に任せておくのに限る。
「こいつが、何」
「・・・香坂が、サッカー部辞めるって言うんで・・・、どうしてなんだって聞いてただけです」
最初に肩を掴まれた少年の代わりに答えたのは、2年生の中で中心になって動くことの多い前野だった。サッカーのセンスは光るものがある訳ではないが、真面目でコツコツ努力できるところと、周りをよく見て細かいフォローをできるところは日向も一目置いている。
一方で囲まれていた方の香坂は、入部してきた時には評価は高かったものの、今現在は伸び悩んでいる選手だった。基礎的な技術は他の部員以上にあるし、身体能力も悪くは無い。ただ体格は小柄で、その分を他でカバーする必要があるが、一番の問題は何よりもメンタルにあると日向は思っていた。一対一になった時、プレッシャーを掛けられた時に気持ちの弱さが露呈する。なるべく試合に出させて経験値を上げさせたいともマネージャーとは話しているが、このままでは公式戦のレギュラーは難しいかもしれなかった。
その香坂がサッカー部を辞めたがっている、という。
日向の眉が上がり、俯いて床を見つめる香坂の肩がビクリと揺れた。
「・・・ふーん。それ、本当?香坂」
「・・・・」
「お前、無視してんじゃねえよ。顔上げろ。別に責めてねえから」
「・・・本当、です」
視線を合わせようともせずに蚊の鳴くような声で答える香坂に、若島津も反町も眉をひそめる。正直、これはもう駄目だと日向も思う。
これまでも何人もの部員が途中で辞めていった。運動部の中でも特に練習が厳しいことで知られるサッカー部だ。脱落者が出ても不思議ではない。
東邦学園中等部では全員が何かしらの部活に所属することになっているため、中には「サッカー部が強いらしいから、入ってみるか」といった軽い気持ちで入部してくる者もいる。そういった人間は、最初の1か月、長くても夏まではもたないのが大半で、辞めるときもあっけらかんとしたものだった。それは別にいい。いるべきでない者がいなくなっただけの話だ。
だがそれらの時期を乗り越えてきたメンバーでも、稀に途中でプツリ、と糸の切れてしまう者がいる。今の香坂がそうだ。そしてそういった者は、やはり香坂のように俯いて小さな声で「もう無理。頑張れない」と仲間に告げて、背中を丸めて去っていった。
メンバーの多い部だから、その中でレギュラーを勝ち取るのは当然容易なことではない。レギュラー選出はあくまでも実力勝負で、努力したからといって選ばれる訳でもない。
レギュラー争いを張れるくらいならまだいい。だがそこまで行き着くことのできないメンバーの方が断然多いのだ。頑張っても頑張っても、試合に出られず、ベンチにも入れない。そういった部員は大会となれば応援席が定位置となる。
日向は特待生で一年次からレギュラーだったが、その陰で裏方に回って支えてくれた先輩たちを沢山見てきた。彼らのうちの誰かがある日突然、練習に来なくなる。顔を見なくなって数日が経って、主将から「辞めた」と部員に報告がある。
辞めていった先輩たちは、年下の日向が当たり前のように試合のスタメンに選ばれてプレイするのを、どのような気持ちで見ていたのか。
苦いものを飲みこんでいただろう。悔しかっただろうし、虚しい思いもあっただろう。
控えに回った経験が無いとは言っても、それくらいは日向にだって想像がつく。
だけど、それでも。
想像はできる。ある程度は理解もできる。だけど、共感はできない。
だって辞めたら、そこで終わりじゃねえか。
辞めたら、文字通りゲームオーバーだ。もう挑戦することもできない。悔しさを晴らす機会さえ与えられないのだ。
怪我でもして走れなくなったのなら仕方がない。だけど走れるなら。
走れる足があるのなら、自分だったら どんなに情けなくても、辛くても報われなくても、最後まで走り続けることを選ぶ。
(辞めないでね、日向君。何があってもね )
謳うように陽気で楽し気だった翼の声が、耳元で甦る。日向の奥歯がギリ、と音を立てた。
「・・・まあ、なあ。正直、今のお前が辞めたいって言っても、驚きはしないよな。キッツイ練習したって、試合にも出られるとは限らねえし? 毎日毎日馬鹿みたいにサッカーばっかでさ。それでも一度もベンチにすら入れませんでしたー、なんてことも有りうるしな。そりゃあ、お前に期待している親にだって言えないよな。そんなこと」
「・・・・・」
「いいじゃん。やるも辞めるも香坂の自由じゃん。好きに選びなよ。後悔しないように、よーく頭使って考えな。・・・だけどお前らさあ、こんな目立つ場所で囲ってんじゃねえよ。うちの部でイジメがある、とか噂になったらどうすんの?俺らに迷惑かけんの、やめてくんない?」
反町が「ホラ、お前らは教室に戻れ」と周りの2年生を解散させる。言い足りないことがあるのか、香坂のことが心配なのか、彼らはその場を離れるのを渋ったが、上級生の言うことは絶対だった。
やがてその場に香坂と日向達だけが残される。
「香坂。お前、今日から練習来なくていいから。三日な。三日やるから、その間に決めろ。やるなら練習に来い。辞めるなら退部届持ってこい。・・・それでいいよね?日向さん」
「ああ。・・・次の授業に遅れる。反町、もう行くぞ」
反町がその場を仕切り、三日のうちに結論を出せ、と香坂に告げる。香坂は結局一度も顔を上げようとはしなかった。
そんな後輩に日向も声を掛けようとはしない。残念には思うが、反町の言う通りだった。やるも辞めるも香坂の自由だ。好きにすればいい。
若島津と反町とともに美術室に向かうべく、日向は香坂に背を向ける。だが「・・・日向さんっ!」と呼び止められて、足を止めた。
振り向けば、香坂が目に涙を溜めてこちらを見上げていた。制服の胸のあたりを握った手が小さく震えている。
「どうして・・・、どうして、日向さんは何にも言ってくれないんですか・・・・!?」
「・・・あ?」
「俺、俺が使えない奴だからですかっ!?俺が、沢田くらいに強かったら、止めてくれるんじゃないんですか!?俺なんかどうでもいい、ってもう見捨てているからでしょう!?」
「おい、香坂」
反町が怒気をはらんで香坂に詰め寄ろうとするが、日向は軽く手を上げてそれを遮った。
「俺だって、日向さんとずっと走っていきたかった・・・っ。でもっ、もう俺、駄目でっ!努力したって、ちっとも上達なんかしなくって!自分より後に入ってきた奴や、始めたばかりの奴に抜かされるって、そんなことばっかり考えて、怖くて・・っ。・・・苦しくって、自分が情けなくって・・・」
香坂の両目から、涙が溢れて零れ落ちる。頬を伝って床にポタポタと落ちるほどに涙を流して、練習が辛いんじゃない、情けない自分が辛いと、訴える。日向は表情を変えずにただ黙って、泣き続ける後輩を見つめた。
「どんどん自分が嫌な人間になっていくんです・・・。他人を妬んで、何であいつばっかり・・・って。あいつばっかり恵まれて・・あんな奴、いなければいいのに・・・って!こんな、こんな風になるために、サッカー始めたんじゃないのに、もう何のためにサッカーやってるのかも、分かんなくなって・・・っ。・・・こんな気持ち、誰かに嫉妬して、苦しくて、自分が嫌いになっていく気持ちなんて、日向さんには分かりません・・っ! 日向さんみたいに才能がある人には、俺みたいな奴の気持ち、分かる筈がありません・・・!」
最後は叫ぶようにしてそれらの言葉を吐き出すと、香坂は力が抜けたのか壁にもたれかかり、顔を腕で覆った。
とうに時間は午後の始業時刻を過ぎている。日向は時計を見た。これ以上ここで騒ぐ訳にもいかない。さっきまでは通り過ぎていく教師も生徒もいたが、皆が一様に、俯いた下級生を取り囲む自分たちを訝し気に見ていたのだ。そのうち声を聞きつけて誰かが来るかもしれない。
どうする? と反町が視線で問いかけてくるが、日向はそれには答えず、声を殺して泣く香坂に冷たい目を向けた。
「・・・分かんねえって、それがどうしたよ。」
「・・・っ」
「俺がお前の気持ちを分からないから、何だっていうんだよ。そんなん、当たり前だしお互いさまだろ。俺はお前じゃねえし、お前は俺じゃねえよ」
ひっく、と香坂がしゃくり上げる音が階段の踊り場に反響する。
「お前が辞めたいなら辞めりゃいいだろ。止めやしねえよ。・・・ただ、これがタケシだったらどうかって話だっけ?そんなもん、変わんねえだろ。やる気のねえ奴にいられても迷惑なだけだ。早く辞めちまえって言うだろうな」
「・・・う、嘘、です・・!日向さんが沢田に、そんなこと言う訳ありません・・・!」
「嘘じゃねえよ。・・・だけどな、そもそもあいつだったら途中で投げ出したりしない。俺以上に負けず嫌いで頑固だからな。お前、何のためにサッカーやってんのか、って言ったよな?そんなん、人それぞれだろうが。理由なんかどうだっていいんだよ。っつーか、お前。やらない理由をこねくり回してんじゃねえよ」
「・・・」
「要はやるかやらないかだろ。だけど、やるとなったら俺は勝ちたいんだよ。どうしたら強くなるか、どうしたら勝てるかを考えろよ。お前、勝ちたくないの?」
「・・・でもっ、でも俺は、きっと試合に出れません・・・っ」
「そう思ってんなら、そうなるだろうよ。だからそれで終いにしていいなら、辞めろって。・・・別にサッカー辞めたからって、お前は生きていけるだろ。ここに来ているくらいで、家だって裕福なんだろうし。自分でどっちか選べるんだから、幸せだと思って選べよ」
日向にはサッカーを辞めるという選択肢は無い。特待生として来ているのだから当然だ。それをありがたいと思いこそすれ、負担と感じたことはない。だが辞める自由があるのなら、それはそれで恵まれている状況とも言えるだろう。
「あー。あと、見捨ててる、だっけ? そんなつもりはねえけど。タケシはあれで割と調子よくて突っ走るところがあるからな。お前みたいに慎重で考えすぎる奴とは足して2で割れば丁度いいし、お前がストッパーになってくれればいいと思ってた。それにあいつと組ませて、上手く行けばお前も伸びるだろうと期待してたよ」
「・・・っ」
弾かれたように、香坂が顔を上げる。その目が驚きの形に見開かれているのを、若島津と反町は見た。
まったく・・・と、若島津は心の中で嘆息する。反町は笑うのを堪えて、妙な咳払いが出てしまう。
まったく、こういうところ。本当に、日向さんは手に負えない 。
「まあ、お前が駄目なら他を当たるさ。・・・じゃあ、三日後な」
日向はひらりと手を振って、動かない香坂を一人置いて、その場を去った 。
back top next